『昭和慕情』

顛末

2008.05.20
マチュピチュを見た後、アンデス山脈を越えて一気に標高を下げて地上絵で有名なナスカをセスナで満喫。
その後、少し北にある街イカからほど近いオアシス、ワカチナで砂漠をバギーで疾走。と、ここまでは良かった。ここまでは。  
ワカチナからピスコ、そしてリマへ移動したが、そのバスの中でこの旅最大の危機が訪れる。
 
ピスコから首都リマへ向かうため、バスへ乗車。
その時、バス会社の人間を装った男が荷物を頭上のラゲッジスペースへ置くよう指示してきた。 いつも持ち歩いているデイパックを指差し、上へ上げてやるから渡せと。
そして、渡してしまったのだ。一度ブラジルでこのデイパックをレストランへ忘れてくるという失態をしたことがある。 それ以来、ヨメからは絶対に手放しちゃダメ!だと言われていたにも関わらず。
多分手渡したその時点では何も盗ってないだろう。まずはバックを僕の視界から遠ざけるのが目的だったろうから。
完全に気が緩んでいた僕はその後も暖かな陽気のせいもあって、うとうととしてしまう。 夢うつつの中、「バック大丈夫だっけ・・・」と少し心配もあったけれど、睡魔に負けて確認もしなかった。
 
リマに到着してからバックがない!と思ったけれど、僕の席から3席くらい後ろのラゲッジスペースにあって一時はほっとした。
けれど、手にしてみて愕然。
軽い!軽すぎる!
 
中身を確認するとやっぱり、ラップトップとカメラ二台と外付けハードディスクとその他充電器などごっそりと、無い。
すぐに警察に行って、時間はかかったけれどポリスレポートは書いて貰ったので保険は下りると思う。だから失ったモノは取り戻すことは出来る。
でも、これまで撮り貯めた写真やそのほかのデータは戻ってこない。
ちょうどこの事件の3日前くらいにヨメから「そろそろ写真のバックアップしたら?」と催促されていた。 手持ちのドライブではDVDは焼けないからCD6枚くらいに焼く必要があって、面倒くさがりの僕はそれを拒否した。これも今となっては悔やまれる。
外付けハードディスクにも写真などのデータはバックアップしてあったけれど、同じバックに入れていたからまったく意味がなかった。
結局残った写真は2月末、アルゼンチンのエル・カラファテまで。その後2ヶ月半くらいの写真はすっ飛んだ訳だ。  
完全に自己嫌悪に陥って気を落とす僕を見て、ヨメが「日本に帰る?」と天使の囁き。
嫌な流れを断ち切るためにそれもアリだなと。
それにヨーロッパ含めこの先の旅を考えると、残りの資金が少し心許ないことにも気づき一旦日本に戻ることにした。
 
悔しいけれど、軽率な僕の行動が原因で起こるべくして起こったんだろう。そこはのんぴりした場所に見えても日本とは全く違う、いつも何かしら危険が伴う場所、海外だったということだ。
やれやれ、だ。これを教訓にこの先の旅に活かせれば良いのだけれど。
 
ということで少しの間、日本で物資と資金の調達をします。
次の出発は北京オリンピックが開催される8月、まず北京入りして、モンゴル経由でシベリア鉄道でヨーロッパへ行こうかと考えている。(今のところの予定。もちろん予定は未定。) 当初の予定とまったくルートが違ってきているけれど、これも旅の面白いところということで。 

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